クマとなまはげ ― 「こわい」から育つ子どもの心

11 月、学会のポスター発表に参加するため、秋田に行ってきました。

今年は全国的に熊の出没が相次いでおり、町のあちこちで「熊、警戒中!!」という貼り紙 を見かけました。

地元の方によると、この時期は山だけでなく住宅地の近くにもクマが現れることがあるのだそうです。人と自然の距離が近いこの土地では、「クマ」という存在が日常の中にあるのですね。それにしても、今年は特に多いとのこと。クマの怖さを、文字どおり身近に感じる時間にもなりました。

怖さといえば、秋田にはもうひとつ有名な「怖いもの」があります。そう、「悪い子はいねが~!」と声をあげる、なまはげです。

滞在中は幸いクマに出会うことはありませんでしたが、懇親会の席でなまはげに遭遇しました。

クマとなまはげ。

現実と伝統。

動物と来訪神。

怖さの質がまったく違うふたつの存在について、少し考えてみたいと思います。

目次

1. 怖さのちがいを考える
2. トラウマと伝統のあいだにあるもの
3. 表層ではなく、心の奥にあるものに目を向けよう

1. 怖さのちがいを考える

クマは、まさに「生きるための怖さ」を教えてくれる存在です。

人間にとって、自然の中にある危険を察知する力は、生き延びるために欠かせません。「怖い」と感じることは、決して弱さではなく、身を守るための大切なサインです。子どもたちもまた、怖さを通して慎重さや注意深さを学んでいきます。

私たちは、古くから動物と関わりながら学び、成長してきました。

野生動物との関わりは危険を察知する力を育て、身近な生き物との観察や触れ合いは、生命の不思議や美しさに気づく経験につながります。

子どもにとっても、動物との体験は特別です。異なる存在に出会い、驚きや興味を抱く中で、生命の尊さや共に生きることの意味を感じ取ります。

こうした体験は、自然や他者への思いやりを育む、大切な学びの土台となります。

一方のなまはげは、少し性質が異なります。なまはげは実際に危害を加えるわけではなく、「怖いけれど、あとでちゃんと安心できる」存在です。こうした「安全な怖さ」は、子どもが自分の感情を調整したり、社会のルールを理解したりする力を育てる助けになります。

たとえば、「なまはげが来たけど、お母さんがぎゅっと抱きしめてくれた」という経験

その中には、怖さの中にも「守られている」という感覚が残ります。安心があるからこそ、怖さは「ただの恐怖」ではなく、「こころの学び」へと変わるのです。

2. トラウマと伝統のあいだにあるもの

もちろん、行きすぎた怖さはトラウマになります。泣いている子どもを笑ったり、「怖がるなんて弱い」と否定したりすると、子どもの気持ちはますます不安になってしまいます。

大切なのは、「怖かったね。でも、もう大丈夫だよ」と受け止めてあげること。

その一言で、「怖さ」は「安心」に変わります。

伝統行事が長く続いてきた背景には、こうした「大人のまなざし」があります。

なまはげが地域文化として根づいてきたのは、ただ怖がらせるためではありません。

親世代もまた子どものころに同じように怖い思いをしてきた――その共有された記憶が、子どもにとっての安心の土台になります。

「お母さんも小さいころ怖かったけど、ちゃんと大丈夫だったよ」と寄り添う親の存在が、怖さをやわらげ、安心を支えるのです。

なまはげの「伝統」とは、怖さを通してしつける仕組みではなく、世代をこえて共感をつなぐ文化なのだと感じます。


3.表層ではなく、心の奥にあるものに目を向けよう

クマもなまはげも、私たちに「怖さとどうつき合うか」を問いかけています。

表面だけを見れば「危険」や「しつけ」の話に聞こえるかもしれません。けれどその奥には、人が恐怖を通して成長していく深いプロセスがあります。

子どもと関わる私たち大人にできるのは、怖さを避けることではなく、怖さのあとに「安心」をつくること。

そして、子どもと同じ体験を共有し、共に感じ、受け入れること。

その積み重ねが、子どもの心をたくましく育てていくのだと思います。

「怖さ」は、実は人と人、人と自然をつなぐものでもあります。

親も子も同じように怖さを感じ、そこから安心を取り戻す――その循環の中には、

強くてやさしい心を育てる力があるのかもしれません。